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プロフィール
岩城裕一 岩城裕一

メディシノバ
代表取締役社長兼CEO
(最高経営責任者)
南カリフォルニア大学医学部泌尿器科学、外科学、病理学教授。1992年より移植免疫学・免疫遺伝学研究室ディレクター。取締役会長として創業設立より事業開発、資金調達等、事業全体の統括を支援。詳しくはこちら>>

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チンパンジーのBonnie

2006年7 月 5日

チンパンジーのBonnie

今日はアメリカ合衆国の誕生日、つまり独立記念日。夜半からいたるところで大輪の花火が打ち上げられてお祭りムード一杯。花火に先立ち、ディスカバリーの打ち上げとは独立記念日にもってこいのお膳立て。いかにもアメリカらしい。ただ、北朝鮮がデポドンで祝福してくれたのはいらぬお世話、迷惑千万。

ディスカバリーで思い起こすのが、チンパンジーのBinnie

その昔、19611129日、アメリカはチンパンジーを人工衛星に乗せ、地球を2周させた後に回収するという画期的な出来事がありました。何せ、打ち上げた衛星を回収したのですから画期的なのです。当時、宇宙開発の向こうを張っていたソビエトは、ライカ犬を乗せて片道で宇宙へ送り出したのですから、その違いは自明です。

このとき頑張ったのが、チンパンジーのBonnie.なのです。詳しい理屈はわかりませんが、衛星が地球に戻るためには、別なエンジンを起動して地球に降りる軌道に乗せなければならないとのこと。しかも、絶妙のタイミングで。この地球に戻るエンジンを作動させるスイッチを押したのがBinnieでした。

どうやってスイッチを押すことができたのでしょうか。Bonnieは2年間も特訓されていたのです。それは実験室から始まりました。特定の大きさで特定の色のランプがついたときにボタンを押すと褒美にバナナチップが出るように仕掛けられた機械から始まりました。人工衛星にはいくつものランプがありますから、ランプであればなんでもボタンを押してはいいというものではありません。また、不必要なときにボタンを押されては宇宙のかなたに飛んでいきかねません。必要なときに必要なボタン、つまり特定の大きさで特定の色のランプをランプが点灯した時にだけ押してもらわなければならないのです。簡単そうですが間違いが許されない仕事です。トレーニングには2年を要したとのことです。

6匹のチンパンジーが一緒にトレーニングを受けたそうですが、遊んでいても、寝室でもランプが点灯するとすぐにボタンを押すようになったのがBinnieだったとのこと。この仕事を担当したのは、宇宙工学の専門家、UCLATillson教授。宇宙工学の専門家がチンパンジーのトレーニングに付きっ切りだったというちょっといい話。

今日のディスカバリーの打ち上げをテレビで見ながらBonnieを思いだしました。

ちなみに、Tillson博士は92歳でまだご健在、ロス在住です。

2006年独立記念日に

岩城裕一

中田選手の引退

2006年7 月 4日

中田選手の引退

中田英寿選手の引退のニュースが当地の独立記念日を前に配信されました。

「これからでしょう」と思いきや、彼のHPのメッセージを読んで大納得。行間に余りあるメッセージが託されていました。読む人が読んだら、胸にぐさっと来ると違いない。一度も会ったことも話したこともないけれど、とにかくすごいよ。本当にご苦労さんでした。

という、私も40年以上も前にさかのぼりますが、中学時代、サッカー部に所属していたんです。当時の花形は野球部。猫も杓子も野球部に入るのを嫌って、サッカー部に入ったわけですが、母親曰く。「サッカー部は不良が入る部活でしょう」これには参った。「そんなことはない」といって3年間を押し通したのですが、何せ弱い。とにかく弱い。私のポジションは「背番号2」、ライトバック。弱いチームのバックスの仕事は極めて明瞭。自陣めがけて飛んできたボールをとにかく遠くに蹴り返す事。ただそれだけ。

一応、部活が始まるとランニング、パスの練習、それからフォーメーション、シュートの練習などをするわけですが、まあ、与えられたドリルを繰り返していたわけでが、どういうわけか、試合になるととにかく一方的に攻められたのです。今になってみれば、何が欠如していたのかわかるのですが、時すでにめちゃくちゃ遅し。彼のHPがなんとなくわかる所以です。

ちなみに、中体連の総評には、毎回、「バックスの活躍が光ったチームである」と書かれていました。

中田選手、時代は変わります。若者のよき指導者になっていただきたい。

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岩城裕一

新しい試み

2006年7 月 3日

新しい試み

プレスリリースでもふれましたが、Jefferiesという証券会社が主催する製薬、創薬企業のカンファレンスでメディシノバの事業を世界の投資家に紹介するためにニューヨーク赴きました。

通常であれば、4箇所の会場で、設定された時間枠(今回は30分)での講演のあと、個別のビジネスミーティングになるのですが、このアプローチですと確率的に25%の参会者にしかメディシノバの事業内容を説明することはできません。そこで主催者であるJefferies社と鳩首会談に及びました。せっかくの機会なので、できるだけ多くの人にメディシノバの事業を紹介する方法はないものか、と。

今まで誰もトライしなかったことをしてみようではないかということで試みたのが、ワインレセプションでのブースの設置でした。しかも、ワインをサーブしているテーブルの隣にメディシノバのブースを出しましたから、ワインレセプションに参加した人は、自分のワインがサーブされるまでの間、否が応でもメディシノバのブースに眼が行く仕掛けにしたのです。カンファレンスの会場はマンダリンオリエンタルホテルで、引き続いて行われたワインレセプションはニューヨークでいま一番ホットなタイムワーナーコンプレックスでしたから、実に多くの方にメディシノバの会社なりを紹介することができました。頂いた名刺の厚さが3センチにもなりましたから、満足な結果です。もちろん、フォローは必要ですのでさっそく始めます。ブースのアイディア、大成功。

実は、メディシノバのブースが活況を呈したのには隠されたもう一つの理由があると私は考えております。弊社のメディカルアドバイザーである松田和子先生に和服を着ていただきブースに張り付いていただきました。和服を着た清楚な女性が、ニューヨークタイムワーナーコンプレックスで開発薬のメカニズムや将来性を英語で説明する試みも初めてでしょう。和服姿の彼女から説明を聞きたい参加者の列が途切れることはありませんでした。ちなみに、松田先生は日本とアメリカ両方で小児科の専門医であり、ハーバードの公衆衛生の大学院を卒業した才媛です。(ちょっと怖い経歴です)雨の中、無理を聞いていただいた松田先生ありがとう。おかげさまで、たくさんのコンタクトができました。

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岩城裕一

雨と靴

2006年7 月 2日

雨と靴

梅雨の日本から前週末に帰国。ほっとしたのもつかの間、月曜日からニューヨークへ出張。運の悪いことに、ニューヨークでも雨、雨、そしてまた雨。

「何をいまさら」といわれることを承知で正直に告白します。クリスマスから2月にかけて雨期はあるものの、雨をみないいわゆる地中海性気候の南カリフォルニアを中心に約30年。その上、悪しき車社会の中での生活ですから、雨に当たるといってもせいぜい駐車場から職場までの間を歩く程度。傘を持って出勤したことは数えるほどしかありません。ですから、出張前にスーツケースに傘を入れるという発想が頭をよぎったことはゼロ。その結果ですか。雨の旅先で買い求めた傘が拙宅にはたくさん。まあ、いずれも安い代物ですが、捨てるに忍びなく、、。ゴルフの傘だって軽く10本はガレージに眠っています。要するに、雨天に対する心構えがなっていないということ。とはいえ、旅先での雨は、せいぜい傘が増えることくらいで、雨が嫌いになるほどではありませんでした。

ところが、この数週間の出張は、雨が心底から嫌になるほどの経験をさせられました。なにしろ、毎日が雨でしたから。

1日に何件ものアポを時間通りにこなすには、東京、大阪では地下鉄やJRなどの交通機関を使い,ニューヨークでは歩くことを心がけるようにしています。道が混んでいる雨天ではなおさらです。当然、今回の出張でも実践しました。おかげさまでアポの時間をミスったことはなかったのですが、1日の仕事が終わり部屋に戻ると、雨にあたり、ふやけ、変形した靴を毎晩見ることになったのです。かわいそうな靴。私は、出張には必ず予備靴を持参します。今回は2足持参しました。しかし、毎日続く雨は、靴の乾燥サイクルをも壊してしまいました。結果、湿っぽい靴を履いて仕事に行った日が2日ほどありました。いかに不快かは、雨を心底から嫌になったくらいですから推して知るべし。

学んだことー雨中の移動はオーバーシューズ着用。

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岩城裕一

追伸;今回のニューヨーク出張は、JFKではなくニューワークに飛びました。

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